エレミヤ50:17 イスラエルは獅子に追われてちりぢりになった羊。先にはアッシリアの王が食らい、今度はバビロンの王ネブカドレツァルが骨を砕いた。
50:18 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、かつてアッシリアの王を罰したように、今、わたしはバビロンの王とその国を罰する。
50:19 そして、イスラエルを元の牧場に連れ戻す。イスラエルはカルメルとバシャンで草をはみ、エフライムとギレアドの山で心ゆくまで食べる。
50:20 その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。
アッシリヤ、バビロンと、周囲の大国の脅威にさらされながら、翻弄され続けてきたイスラエルの民は、ようやくその苦難の歴史から解放されようとしていました。
そして、それは、もはやイスラエルの罪を主がお認めにならないほどに完全な赦しが約束されていて、もう二度と、このような裁きをもたらされることはないという、真実な解放の約束が語られていると言えるでしょう。
しかし、私たちを苦しめる脅威は、時に、国であったり、人であったり、外側から働きかけて、様々な形で苦しめをもたらしているように思いがちなのですが、案外、自分自身のうちにある罪の問題がこれらの苦しみを引き起こしているという事実に気がついていないものです。
というのも、アッシリヤやバビロンといった大国の脅威も、もともとは、イスラエルの神への背反によってもたらされた神の裁きの結果でもあり、真実な悔い改めとともに、生ける真の神のみもとに立ち返るなら、それらの脅威も取り除かれていくということなのでしょう。
つまり、私たち自身のうちにある「神へ敵対しようとする性質」、これこそが真の「敵」であり、これに打ち勝っていかなければ、真の平安はもたらされないのではないでしょうか。
エレミヤ50:4 その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て 彼らの神、主を尋ね求める。
50:5 彼らはシオンへの道を尋ね 顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき 永遠の契約が忘れられることはない。
周りがどうこう言う前に、まずは己を吟味し、神様の御前に背いている部分がないかどうか、向き合っていきたいものです。