エレミヤ26章1~24節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ26:14 わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。
26:15 ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」
26:16 高官たちと民のすべての者は、祭司と預言者たちに向かって言った。「この人には死に当たる罪はない。彼は我々の神、主の名によって語ったのだ。」

預言者エレミヤは、主から託されたイスラエルに対する裁きの言葉を余すところ無く語り告げ、そのことの故に、民の反発を招き、迫害の危機にさらされていました。
しかし、彼は、臆することなく、最後まで自分の務めを果たそうとし、主なる神様から託された言葉を伝えようとしていたのです。
「たとえ厳しい裁きを伴う言葉であったとしても、もし自分がそれを語らなければ、民は真実に悔い改めようとせず、本当の滅びへと突き進んでしまう。」
彼の厳しさは、同朋に対する愛ゆえの言葉でもあったはずです。
滅んでもいいような相手なら、あえて命の危険を犯してまで、厳しい言葉を語る必要などないはずなのです。
そう思う時、私たちの救い主イエス・キリストが、ご自分の命をかけて私たち全ての人間の罪を償い、十字架で死にゆかれた事実を思う時、そこにも、私たちに向けられた「あなたに滅んで欲しくないのだ!」という強い愛の心があったことを思わずにはいられないのです。

ローマ5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

どうでもいいような相手のために命をかける人などいません。
しかし、イエス様は、罪人のために死んで下さり、私たちに「悔い改めて欲しい」「救われて欲しい」と願われ、私たちのために命をかけてくださったのです。
なんという大きな恵みでしょうか。

主イエス様の十字架のお苦しみを覚え、感謝と賛美の祈りをお捧げしたいものです。