エレミヤ16章1~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ16:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
16:2 「あなたはこのところで妻をめとってはならない。息子や娘を得てはならない。」
16:3 このところで生まれる息子、娘、この地で彼らを産む母、彼らをもうけた父について、主はこう言われる。
16:4 「彼らは弱り果てて死ぬ。嘆く者も、葬る者もなく、土の肥やしとなる。彼らは剣と飢饉によって滅びる。その死体は空の鳥、野の獣の餌食となる。」
16:5 主はこう言われる。「あなたは弔いの家に入るな。嘆くために行くな。悲しみを表すな。わたしはこの民から、わたしの与えた平和も慈しみも憐れみも取り上げる」と主は言われる。
16:6 「身分の高い者も低い者もこの地で死に、彼らを葬る者はない。彼らのために嘆く者も、体を傷つける者も、髪をそり落とす者もない。
16:7 死者を悼む人を力づけるために、パンを裂く者もなく、死者の父や母を力づけるために、杯を与える者もない。

先日、ある教会員の方が、ご近所に住まわれる方の1歳になったばかりの赤ちゃんが心臓病のため亡くなられ、どうしてこのような悲しいことが起こるのだろうと言って涙しておられました。ある人は、周囲に迷惑をかけながらも、90歳や100歳になるまで生き続ける人もある一方で、どうして、このような罪のない幼子が早くに死ななければならないのか、かわいそうでならないとおっしゃるのです。
私は、その話を伺いながら、「でも、亡くなった時に、それほど悲しんでもらえる人の方が幸いではないですか?早く死んでくれればいいのになどと思われて召されるよりは、よっぽど幸せだと思いますよ」とお話ししたところ、「そうかもしれませんねえ」と言って、その子の早すぎる死について受け留めていらっしゃいました。

人が亡くなった時、だれの心にも留められず、誰にも悲しんでもらえないということは、人として、これ以上ない不幸なことかもしれません。
しかし、エレミヤの箇所には、主なる神様を敬わず、異国の神々に心を奪われて生きている人たちに対し、そのような不幸が襲うであろうということが語られていあす。
おそらく、ここに記されていることは、北からの異国の軍隊の侵攻によって、多くの人々、葬儀もままならないほどの無残な状態で殺されてしまうであろうことが預言されているのでしょう。
親しい家族から死を悲しんでもらうどころか、自分の命すら危機に瀕している状態では、家族の死を悼んでいる余裕すら持ち得ないのです。
平和のうちに、一生を終えることのできる人は、なんと幸いでしょうか。
もちろん、実際の平和もさることながら、神様との間に確立された、魂の平和、すべての罪を、イエス・キリストの尊い血潮によって赦された者だけが味わうことの出来る、揺ぎ無い安息。そのことの持つ意味を考えつつ、イエス・キリストとともにある生涯を歩み続けていきたいものです。