エレミヤ15章1~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ15:17 わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく 御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。
15:18 なぜ、わたしの痛みはやむことなく わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り 当てにならない流れのようになられました。
15:19 それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら わたしのもとに帰らせ わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず 熟慮して語るなら わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
15:20 この民に対して わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが 勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け あなたを救い出す、と主は言われる。
15:21 わたしはあなたを悪人の手から救い出し 強暴な者の手から解き放つ。」

昨夜のニュースで、元少年の犯した殺人事件の裁判の判決について報道されていましたが、元少年の側に反省しているとは思われない態度が見受けられたので、死刑にするより他仕方ないのではということのようです。
しかし、ふと思ったのですが、人は果たして、自分が犯す過ちを、本当の意味で反省し、悔い改めることができるのだろうかということです。
私は「すべての人は罪人である」という聖書の御言葉は真実を言い表していると思うので、おそらく、仮に反省していると言っていたとしても、本当の意味で自分の犯した過ちの大きさを知ることはないのだろうと思います。私も含めて。
だからこそ、神の御子イエス・キリストの贖いの犠牲は必要なのです。決して赦されない者だからこそ、神ご自身の命をかけて償わなければならなかったのです。
そして、それが、この私の愚かな罪のために支払われた犠牲であるということを知ることこそ、本当の意味で悔い改めとなるのではないでしょうか。