1コリント12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
パウロは、キリストの教会を一つのからだのようなものとみなし、互いが必要な器官であることを覚え、尊重しあうよう説いています。
自分を必要以上に卑下することや、他人を見下すことなどせず、互いが機能しあい、一つの働きを進めていくことができるように、神様は、それぞれに役割をお与えになられているのです。
新共同訳聖書では、25節の箇所で「配慮」という言葉が用いられていますが、私は、新改訳聖書の「いたわりあうため」という表現の方が好きです。なんとなく、優しい感じがします。
でも、健やかな状態の器官の方もおられたなら、その方が、ますます豊かに用いられるようになるためには、「いたわり」よりも「配慮」の方がしっくりくるのかもしれませんね。
いずれにせよ、一人一人が、それぞれに与えられた賜物を活かし、豊かな人生を生きることができるように支えあっていきたいものですね。