宣教の動機 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

日時:2006年5月21日
聖書箇所:使徒1章3~14節

使徒1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

イエス様の昇天の出来事を目撃した弟子たちは、イエス様が語られた通り、エルサレムから始まって、ユダヤ、サマリヤの全土、そして、地の果てに到るまで、イエス・イリストの復活の証人として、福音の宣教を進めていきました。
そして、その結果、今も各地で福音の宣教が進められており、私たち一人一人も、その一端を担っているということになります。
しかし、そのことを冷静に考えてみると、イエス様の弟子たちは、実に素晴らしい働きをしたのだなあと思わされます。もちろん、今、自分たちも福音宣教の働きに携わらせていただいてはいますが、当時、まだまだキリスト教がごく一部の人たちだけの間で信じられていた実情を思う時、果たして、自分だったらどうだっただろう、きっと、早々に福音宣教の働きなどあきらめて、何か他の仕事をしていたに違いないだろうなあと思います。
でも、おそらく、イエス様の時代の弟子たちも、今の日本のクリスチャンたちと同様、ごく少数のグループの働きの中で、不安や恐れと闘いながら、キリストの福音を宣教することを推し進めていったことでしょう。そう考えると、置かれている環境は、今の私たちとあまり変わらないような気もします。
大切なことは、主イエス様が仰せられたことを「はい。主よ。仰せの通りにいたします。」と応え、従っていくだけのことなのだろうと思うのです。つまり、宣教の動機は、いつの時代でも同じこと、イエス様の復活を目撃したからできるとか、話を聞いただけだからできないとか、そういうことではなく、主の御語りになられた御言葉に聞き、それに従順に従っていくこと、これに尽きると思います。
今日、私たちも、使徒の働き1章の御言葉を聞き、この御言葉は、当然、現代に生きる私たちにも向けて語られている言葉であり、全ての時代の、どこの国の人であっても、「地の果てにまでイエス・キリストの証人となる」ために召されていることを思わされます。