1コリント12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
ここには、キリストの体なる教会に、主なる神様が様々な賜物をお与えになり、それぞれの役割を担うべきことが語られていると言えるでしょう。
使徒は、使徒としての務めを果たすべきですし、預言者は預言者の、教師は教師の、そして、癒しを行う者、援助する者、管理する者、異言を語るものなど、神が各々にお与えになられた賜物を、その目的に従って用いていくことが大切なのでしょう。
しかし、ここで注目すべきことは、これらの賜物を数え上げた後、もっと大きな賜物をを受けるように努めなさいと語られていることです。その賜物については、明日の日課で取り上げることとして、ここでこのような表現が用いられているということは、これらのような賜物は、特殊な目的のために特定の人たちにのみ与えられたものであり、私たちが熱心に追い求めるような賜物ではないということなのです。これは少々面白いことではないかと思います。
誰もが使徒のように、復活のイエス様を目撃できたらなあと思うかもしれませんし、預言の言葉や異言の言葉を語れたらなあとか、病気を癒す賜物が与えられたらなあと思うこともあるでしょう。しかし、パウロは、そのような賜物は求めず、もっと大きな賜物を求めよ!と命じているのです。
私たちは、時々、他人をうらやむことがあります。自分にないものを他人が持っていると、自分も欲しいと思ってしまうのです。しかし、逆の言い方をすれば、私が持っているものも、周りの人が欲しいと思っているということなのかもしれません。誰も自分のことはよく見えないのです。(鏡の中の自分ですら、左右反対なのですから)
神様がお創りになられた「私」。この私という存在は、この世にただ一人しか存在していないのです。ならば、その私のなすべき務め、なすべき働きを、与えられた賜物を最大限に活かしながら、生きて行きたいものですね。