1コリント9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
このようなパウロの言葉を聞くと、一体、私たちは、何のために福音を宣べ伝えようとしているのかということを思わされる。
福音宣教は、私たちに託された、神様からの使命である以前に、まず、私たちがこの福音の恵みに与り、喜びに生きるためにあるのだということを覚えながら、なぜ伝えるのか、「あなたにも喜びを共にして欲しいから」というパウロの気持ちに習う者になりたいと思う。
報酬が欲しいからするのではない。ましてや、報酬をもらったからするのでもない。
「喜びの知らせ」とは、いつでも利益度外視なのだから。