イザヤ62章10節~63章6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ63:1 「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ大いなる救いをもたらすもの。」
63:2 「なぜ、あなたの装いは赤く染まり衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
63:3 「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴びわたしは着物を汚した。」
63:4 わたしが心に定めた報復の日わたしの贖いの年が来たので
63:5 わたしは見回したが、助ける者はなく驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕によりわたしを支えたのはわたしの憤りだ。
63:6 わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじりわたしの憤りをもって彼らを酔わせ彼らの血を大地に流れさせた。

ここには、勝利を告げ、救いをもたらされるお方が、その衣を真っ赤に血で染めてやって来られるということが語られています。
その血は、救いをもたらされるお方に聞き従わなかった者たちを踏みつけ、踏み砕いた時に浴びた血であり、主なる神様は、そのような血による汚れを被ったことで、輝かしい大勝利者と称えられるというのである。
イエス様の十字架で流された血は、まさに、私たちの犯した、神への背きの罪のためであると言えるのですが、しかしながら、その贖いの御業は、ただ主イエス様御一人で成し遂げられた贖いであり、どれほどの孤独と闘いながら成し遂げられた御業であろうかと思う。
その際、イエス様を支えたのは、「わたしの憤り」であったと語られているが、それは、主なる神様の、徹底した罪に対する憤りであり、私たちを滅ぼそうとしている悪の支配力に対する燃えるような憤りなのでしょう。しかし、それは、私たちが憎いというのではなく、私たちを愛するが故に、その私たちを縛り付けている罪を憎むものであるということを思うのです。

イザヤ63:7 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を 主がわたしたちに賜ったすべてのことを 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み 憐れみと豊かな慈しみを。

主の恵みと慈しみの故に救われた事を感謝します。
そして、そのために血を流し、命を投げ出された主イエス様をほめたたえます。