日時:2006年3月12日
聖書箇所:ヨハネ9章
本日の成長のテーマは「主イエスは、世の光である」というもので、テキストには、ヨハネ福音書9章における生まれつきの盲人の人の癒しの出来事が取り上げられています。
イエス様が世を照らす真の光であられるということ、そして、生まれつきの盲人が癒されたということは、大いに関係があると言えるでしょう。つまり、イエス様は、この世の全ての人に光をもたらすお方であり、そのことを受け留めることができるのは、霊の目を開かれた者だけであるからです。
では、霊の目を開いていただくとは、どういうことなのでしょう。
ヨハネ9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
イエス様は、41節の箇所で、「見えると言い張っている者こそ、罪が残っている」ということを仰せられており、自分が罪深い者であるということを知っているかどうか、自分の罪深さを認めることができる者こそが、霊の目が開かれている者であるという事なのでしょう。
ヨハネ9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9章2節には、当時の人たちの一般的な罪に対する考え方がよく表されていると言えます。
生まれつき目が不自由であるのは、両親が罪を犯したからか、あるいは、本人が罪を犯したことによるものと考えられていたようで、罪の結果として考えられていたのです。
しかし、このような考え方の持つ大きな問題点は、「誰が罪を犯したから、こうなったのか」と、まるで犯罪者でもあぶりだそうとするかのような態度にあると言えるのではないでしょうか。
そして、そのような態度を取る者自身は、自分は常に完璧であり、まるで検察官か裁判官かのように正しい者であるという考えに立っていることにあります。
実に、イエス様が指摘されておられることは、そういうことであり、誰もが自分を正しいと思い込み、間違っているのはいつでも他人。「誰が罪人ですか?」という問いかけの「誰が」の中に、自分は入っていないのです。
「灯台下暗し」という言葉がありますが、誰も、自分のことは良く見えないのです。いえ、見ようとしないのです。
しかし、「イエス様こそ、世を照らす真の光」であられ、灯台の足元さえも、くっきりと照らすことのできるお方であられるのです。
自分の罪がしっかりと認識できているか、そして認識できている者は、イエス様のもとに来て、イエス様の十字架の贖いによって赦しを頂くことができるということを信じる者となるはずです。そして、
そのことが「霊の目を開かれた者」である証しと言えるでしょう。