マルコ8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
もともと目が不自由で、物を見ることの出来なかった人が、ある時を境に見えるようになるということは、一体どのような体験なのだろうと思います。
「これが人間の本当の姿なのか?今まで自分がイメージしていた木に似ているけど、あ、でも動いている、歩いているのか。」とそんな感じでおぼろげに感じ始めていたのかもしれません。
先日、あるテレビの番組で、能の研究をしておられる方が、子供の頃、自分が目で見ている光景が、果たして本当に現実のものなのだろうかと考えたことがあるということを語っていました。実は、私も子供の頃、同じようなことを考えたことがあったので、同じように思う人もいるのだなあと思いました。
私が「白」だと思っている色は、他の人が見ても同じ色に見えているのだろうか、とか、私が真っ直ぐだと思っている線は、他の人が見ても同じように真っ直ぐなのだろうか、などと不安に思ったこともあります。実際のところは、感覚でしか捉える事はできない世界ですし、みんなが同じものを指差して「あれは白という色だ」と言うから、それを白として認識しるというだけのことなのかもしれません。
実際、色覚の異なる人がいるということも知られていることなので、全ての人が全く同じように見えているというわけではないのかもしれません。
最近、デジタルカメラが流行し、ホワイトバランスという言葉が用いられるようになりましたが、光源の違いによって、同じ白でも、緑っぽい白や、赤っぽい白に写ったりすることがあり、正確な色合いを表現するには、まず、白がきちんと白として認識される必要があるのだそうです。
ところで、最近気がついたことなのですが、私の右目と左目でも、少々、色合いが異なっていることがわかりました。右目のほうが、やや赤っぽくて、左目のほうが、やや緑っぽいようです。(交互に固めずつつむって見るとわかります)
そう考えると、私が「白」だと思い込んでいた色も、右目で見た淡い赤っぽい白と、左目で見た淡い緑っぽい白とを混ぜ合わせて見た色であり、ただ、自分勝手に白だと思い込んでいるだけなのかもしれません。
イエス様がどなたであるのかということを知っていく時も、今まで自分で見えていると思いこんでいたことに囚われず、主に目を開いていただいて、しっかりと霊の目を見開き、そこに何が語られているのかを正しく認識していけるようにしたいものです。
主よ、見えていると思いあがっている私の霊の目を開き、あなたの真実な恵みを知ることができますよう御導きください。