マルコ8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
聖書には、イエス様が大勢の群集にパンを分け与えられた出来事が二度ほど記録されています。
マルコ福音書では、6章31~44節において、5千人もの人々に5つのパンと2匹の魚を分け与え、そして、この8章1~10節において、4千人もの人々に、7つのパンを分け与えられたことが記されています。
おもな違いは、5千人から4千人、5つのパンと2匹の魚が7つのパンと少しの魚というくらいなのですが、ふと、8章8節の注釈のところに「12のかごより大きな籠、パウロがダマスコ脱出の時にも用いた物と同じ」と記されているところに目が留まりました。
さっそく、何がどう違うのだろうと調べてみたところ、確かに、使徒9章25節におけるパウロが用いた「かご」と、この8章8節における「かご」は、同じ言葉が使われていました。
すると、6章43節の「12のかご」は、いかなるものか。
辞書には、確かに「かご」という訳も記されていましたが、他には「ざる」と言う言葉も記されていて、「かご」と「ざる」では、随分印象も違うし、ましてや、パウロが逃げる時に使った「かご」のように、大人一人入れるくらいの大きさの「かご」と「ざる」とでは、全く別物であると言えるでしょう。例えて言うなら、お皿とバケツくらい、使い道の異なるものであったろうと思うのです。
さほど大きな違いではないかもしれませんが、当時の光景を思い起こし、そこから受け取る印象も、随分違ってくることでしょうし、また聞くものの容量によっても違ってきます。
「ざる」と聞いて、100円ショップで売っているような小さなざるを思う人もあれば、清掃作業などの時に使う割合大きなざるを思う人もいるでしょう。
あるいは、「かご」と聞いて、買い物かごのような大きさのものを入れる器を想像する人もいれば、遊園地などにある観覧車のかごを思う人もいるかもしれません。
おいしい食べ物を入れる器もあれば、汚れたものやゴミを入れるだけの器もあります。
聖書の御言葉を聞いて、それを受け入れようとしている「私」という器は、果たしてどんな器なのでしょう?
「ざる」と言うと、何か、ちょっと聞いた御言葉がサラサラと抜け落ちていくような印象を受けますが・・・そう考えると「かご」ならいいかも。
しかも、パウロさんも入ったほどの大きさの器ですから。