マルコ6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
この箇所には、イエス様の噂を聞きつけたヘロデが、自分が殺したバプテスマのヨハネが生き返ったのではないかと考えていたということが記されています。
おそらく、ヨハネが復讐のために生き返ったのではないかと思いこみ、怯えていたために、そのように考えたのではないでしょうか。
つまり彼は、それほど自分がヨハネを殺したことを恐れていた証しなのです。
もともとヘロデは、ヨハネに対して、複雑な態度を示していたようです。
自分の妻のことで「律法に反する」と言って指摘されたことで恨み、殺してしまおうかと考えていたものの、ヨハネが正しい聖なる人であることも知って、彼を保護していたり、あるいは、彼の口から聞かされる律法の言葉に当惑しながらも、その教えを喜んで聞いていたりと、かなり複雑な心境でヨハネに接していたであろうことが伺えるのです。
私はこの箇所を読んでいて、一体ヘロデは、ヨハネのことをどう思っていたのだろう、好んでいたのか、それとも嫌っていたのか、好んでいたのなら、なぜ殺そうと思ったのか、嫌っていたのなら、なぜ教えを喜んで聞こうとしたりしていたのか、などと、こっちまで複雑な心境になっていくように感じたのですが、おそらく、答えは、どちらも正解なのでしょう。ヘロデはヨハネを嫌い、殺したいと思い、同時に、好み、保護したいと思ったのです。
実は、こういう複雑な態度が、私たち人間の生の姿なのでしょう。
好きならなぜ優しくしないのか、嫌いならなぜ冷たくしないのか、どっちつかずではっきりしない、それは、優柔不断だからというよりも、私たち人間の生がいかにもいい加減で、調和が保たれておらず、霊肉の統合がバラバラになっているからなのです。
ローマ7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
こんな惨めな私たちを救って下さるのは、ご自分の命を投げ出してまで、私たちの罪の贖いを成し遂げようとして下さったイエス様を置いて他にはありません。
私のいかにもいい加減な罪のために十字架で死んで下さったイエス様に感謝いたします。