マルコ5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
19節の御言葉は、よく救われた人がイエス様のことを証しするようになるための理由として用いられることのある言葉であると言えます。
主イエス様が、あなたに何をして下さったかを証しすること。それが「証し」と呼べるものでしょう。
しかし、注目すべきことは、イエス様は、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと」を知らせるようにと仰せられていることです。
ただ単に、イエス様がして下さった事実だけを知らせるのではなく、主イエス様が憐れんでくださったということを知らせることが大切なのです。
そう考えると、私たちは、ついつい「悪霊を追い出された」という、目に見える行為だけに注目しがちなのですが、それよりもまず、イエス様の方からすすんでゲラサ人の地へと来て下さったことや、怖くて誰も近寄ろうとしない悪霊にとりつかれた人に語りかけるなど、彼に対する配慮の眼差しは、確かに、憐れみに満ちた行為であったと言えるのです。
「苦しめないでくれ」と呼ばわる悪霊の叫びについても、イエス様は、その叫びが彼の本心からのものではなく、悪霊に縛られていることによって口走っている言葉であることを見抜き、あくまで、愛の心を持って彼に接し、悪霊を追い出すことで、彼の本心を取り戻してあげようとしておられるのです。
イエス様の憐れみの心と配慮。
それは、案外、私たちが見落としてしまいがちな事柄ではないでしょうか。
私たちは、ついつい、目に見える結果にばかり捉われてしまい、イエス様が祈りを聞いて下さるとか、聞いて下さらないとか言って、一喜一憂してしまいがちなのですが、もっと長い目で見て、なぜ、このような問題が生じているのか、あるいは、この辛いことの中にも、必ず何らかの主のご配慮があるはずだと思いながら歩むのとでは、心の有り様も随分と違ってくるように思います。
1コリント10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
どんな試練の中にあっても、主は私たちを憐れみ、共にいてくださいます。そして、主が憐れみ豊かな主が共にいて下さるという信仰がある限り、そこには必ず平安も与えられます。
全て解決することだけが幸いなのではなく、たとえ問題が解決していなくても、主ご自身が共にいて下さり、私を憐れんでいて下さることが幸いなことであるということを覚えておきたいものです。