マルコ4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
地道で真面目に生きている人は、他人を出し抜いてまで目立とうとしなくても、いつか必ず周囲の人たちから信頼され、日の当たるポジションに現われてくるものです。
それは、まさに、ともし火のようなものと言えるでしょう。ともし火は、目立とうとして、ともし火の役目を果たそうとしているのではなく、自分にできること、自分の成すべき事を、ただ忠実に果たしている、それだけなのです。
器の大きい人がいます。容量が大きいというか、おおらかで、他人の悩みなどにも心を開いて相談に乗ってくれたり、ちょっとした不平なんかも優しく聞き流してくれたり、そんな人に出会うと、この人と仲良くしたいなあと思うことがあります。
まさにイエス様が仰せられる通り、器の大きな人は、その大きさに応じて、周りの人たちから信頼を得ていくということなのでしょう。
両者に共通すること、それは、いずれもが、自己中心的ではなく、自己実現を目指してはいないということでしょう。己のことばかりに目を向け、他人のことには一切関心を持とうとしない人は、いつかやがて周囲の信頼を失い、孤立していくだけです。しかし、周囲の人のことにも心を留め、主なる神様が仰せられたように「神を愛し、隣人を愛する」ことを忠実に果たしていくならば、きっとそこには、神様からの大きな祝福が約束されていることでしょう。
イエス様がここで仰せられていることは、実に、イエス様ご自身が私たちのために成し遂げて下さったことに通じるものです。
というのも、イエス様は多くの人を救うため、私たちの罪の償いを成し遂げるために人としてお生まれになり、私たちの罪を引き受けて下さいました。
ご自分の役割を忠実に果たし、多くの罪をお引き受けくださったイエス様。
願わくは、少しでもイエス様の生き方に倣い、自分の役割を忠実に果たし、他者を受け入れていくことの出来る寛容な心を持ちたいものです。