マルコ4:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
4:12 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
イエス様は、種まきのたとえを御語りになり、道端にまかれた種、岩地にまかれた種、いばらの中にまかれた種、そして、良い地に撒かれた種のことを御語りになられました。
しかし、12弟子も含め、このたとえの意味を理解できる者は一人もいなかったのです。
たとえを理解することができなかったということは、御言葉の意味がわからなかったということであり、種を種として認識できていないという事であり、まかれる以前の問題なのかもしれません。
聖書の言葉を正しく理解できるかどうかの鍵は、聖書は全て、生ける真の神の御言葉であるという信仰を持って受け留めることにあると思います。
聖書を単なる歴史の書物であるとか、道徳の書物、あるいは、未来を予言するものであるかのように見るなら、そこに、聖書の真意を見る事はなく、神様の真の御心を知ることにはつながらないでしょう。
2テモテ3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
聖書の御言葉を聞くうえで、最も大切なことは、この御言葉が神の霊によって書かれた聖なる書物であり、そのままで、神の御言葉であるということを信じて受け留めることです。
そのような信仰なしに聖書を読もうとするなら、おそらく、聖書を読む理由はありません。
私のうちに、神の国の芽生えがあり、成長がもたらされていきますように願いつつ、御言葉をお受けしていきたいものですね。