日時:2006年2月26日
聖書箇所:マタイ9章35節~10章23節
本日の成長のテーマは「宣教の訓練」となっていて、イエス様が12人の弟子たちを宣教にお遣わしになられた時に諭された事柄について語られています。
10章においては、弟子たちが宣教に出かけていく時、どのような事柄に注意すべきかということについて、かなり細かな指示が与えられています。
そこでは、迫害を受けることも想定しておくべきであり、そのような中にあっても、最後まで耐え忍び、任務を全うするように命じられているのです。
しかし、これらの宣教の動機付けということになると、やはり、9章において語られている事柄に注目しなければなりません。
マタイ9:35 それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
9:37 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
ここに記されていることは、イエス様が、飼い主のいない羊たちのように弱り果てているイスラエルの民を憐れみ、彼らの世話をする目的のために、弟子たちをお遣わしになられたということであり、弱り果てている魂のお世話をする働き手を必要とされたということです。
もちろん、イエス様ご自身も、すべての町や村を巡り、会堂で教え、福音を宣べ伝え、病気やわずらいに苦しむ人たちをお癒しになられているのですが、それでも悩み多き時代に苦しんでいる者たちをご覧になられ、そこで、弟子たちをお遣わしになられているのです。
つまり、御言葉を語り、福音を聞いて、病やわずらいを癒されても、人は悩み続け、励ましや慰めを必要とし続けるということであり、そのような働きに携わる人が必要なのだということでしょう。
イエス様が求めておられる働き手とは、そういう魂のお世話をする人であり、教師や伝道者、医者といった人たちよりも、魂のケアをする者、共に祈り、励まし、慰めを与える者をお求めになられているのです。
マタイ23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
ヤコブ
3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
今の時代、誰もが「教える人」すなわち「教師」になりたがろうとします。もちろん、学校などの教員という意味ではありません。言葉を用いて知識を与えようとする者という意味で、要するに、口先ばかりで、実際に弱り果てて困っている魂に寄り添うことをせず、滅び行く魂を見ても、そばを通り過ぎるだけで手を貸そうとしない祭司やレビ人のような生き方をしている者です。
しかし、本来の教師というのは、イエス様のように、弱り果てている魂を憐れに思い、その動機によって、魂に慰めを与えるために、魂に寄り添っていく者でなければなりません。
今の時代も、イエス様が必要とされているのは、りっぱな神学者や研究者ではなく、疲れ果てた魂に寄り添って励ましを与えていこうとする人であり、そのことを忘れずに、主の御用に携わらせて頂きたいと願います。