出エジプト33:1 主はモーセに仰せになった。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。
33:2 わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。
33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」
モーセのいない間に、アロンを立てて金の子牛を拝んでいたイスラエルの民に対し、主なる神様は「もはやあなたがたとは共に上っていかない」と仰せられ、神様に対して犯した背反の罪に対する裁きを命じられました。
しかし、「共に上ってはいかない」と仰せられはしていますが、神様が最初から計画されていた通り、イスラエルの民を、約束の地、乳と密の流れる地へと上っていくように命じています。
そして「共に上っていかない」理由として、途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。」と言う事を告げておられるのです。
このことは、主なる神様のイスラエルの民に対する愛と憐れみが複雑に絡み合い、仕方なく、こうするより他ないという結果の現われであると言えるのではないでしょうか。
「私はあなたを愛している。だから、本当は、一緒に行って上げたい。しかし、あなた方は、心の頑なな者たちだから、また何度も私を裏切り、悲しませるであろう。そのたびに、怒りをもってあなた方に裁きをもたらすこともしたくはない・・・。」そんな神様の深い憐れみに満ちた心の故であると言えるのではないでしょうか。
このような神様の葛藤は、やがて、ご自分の民を救うために、ご自分の御子イエス・キリストを十字架に捧げられることへとつながっていきます。
そう、この「かたくなな民」とは、まさに、私たちのことであり、先立って遣わす使いこそ、主イエス様ご自身のことを指し示していると言えるのです。
本当ならば、顔と顔とをあわせて、私たちと共に歩みたいと願っていらっしゃるイエス様。しかし、私たちの罪故に、それが果たせず、やむなくご自分の命を投げ出して下さったことを思うとき、そのイエス様の葛藤のお姿こそ、真実の愛の現われであるということを思います。
願わくは、そのような神様の葛藤を覚えつつ、悔い改めの心を持ち、恐れの心をもって、主の御前に立たせて頂ける幸いを感謝しつつ、モーセのように、主の御言葉に従う者でありたいものです。