出エジプト6章2~27節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト6:2 神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。
6:4 わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。
6:5 わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。
6:7 そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」

神様は、モーセに対して、かつて、イスラエルのどの先祖たちにも名乗らなかった新しい「主」という名前で、ご自分がどういうお方であるかということを知らしめようとしています。
もちろん、この「主」という名前は、出エジプト3章13~15節の箇所で、神ご自身が御語りになられたお名前と同じもので、「わたしはある」という意味を表す言葉と全く同じ言葉が用いられています。
この「わたしはある」とう名前は、後に、ユダヤ人たちが「主の御名をみだりにとなえてはならない」との戒めを厳格に守ろうとするが故に「わたしはある」と記されている言葉を、便宜上「主(アドナイ)」という言葉に置き換えて読むようになったことによるものですが、この出エジプト6章の記述を読むと、その理由がはっきりとわかると言えるのではないでしょうか。
すなわち、ご自分の名を「わたしはある」と仰せられる神が、イスラエルの民をエジプトの重労働の下から導き出し、奴隷の身分から救い出した後、エジプトに変わって、神ご自身が彼らの神となり、彼らも神の民となると約束されているように、エジプトの奴隷の状態から解放され、新たな主人のもとに置かれるようになることから、新しい主、本当のご主人となられたお方だからこそ、この「わたしはある」という言葉を「主」と読むようになったのでしょう。
そして、そのような救いを完成してくださったお方こそ、あの十字架のキリストであり、罪と死の奴隷の状態にあった私たちを、滅びの中から解放し、真の救いと命の約束に与らせてくださったお方だからこそ、私たちは「イエスは主」と信仰を告白するのです。

ローマ10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

イエス様は、私の主です。