詩篇36篇 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

詩篇36:2 神に逆らう者に罪が語りかけるのが わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。
36:3 自分の目に自分を偽っているから 自分の悪を認めることも それを憎むこともできない。<新共同訳>

ここに記されている内容は、新改訳聖書の訳文によると、随分、意味合いの異なった文章になります。

詩篇36:1 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。
36:2 彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。<新改訳>

一見すると、それほど違わないように見えますが、「罪が悪者に対して語りかける」という出来事が、誰の心に向けられているか、「私の心」なのか、それとも「他人の心」なのかということで、全く意味が異なってくるからです。
新共同訳聖書では、「神に逆らう者に罪が語りかけるが、私の心の奥に聞こえる」と訳し、このことが「私」の心の中に起きている事柄であるということをイメージさせます。
一方、新改訳聖書では、1~4節までが神に逆らう者に関する記述、5節以降は神を慕い求める者の祈りと、一見したところ、神を恐れぬ不信仰な者への批判の言葉として記されているように思えます。
正確には、聖書原文では「私の心に」という表現が用いられているため、どちらかと言うと、新共同訳聖書のほうが忠実に翻訳されていると言えるでしょう。
とすると、「罪が悪者に対して語りかける」という出来事は、私の心の中に起こっている出来事であり、ここに記されている「彼」とは、実は、この詩篇の作者自身のことを言い表そうとしていたのではないでしょうか。
そう考えると、この詩篇の作者が、自分の心の内にも罪が存在し、その罪の誘惑に常に悩まされながらも、だからこそ、主なる神様の御救いが必要であり、神様の恵みなくば、生きていくことの出来ない者であるということを知っていたのではないでしょか。

私たちは、ついつい、神様を信じる自分は神の御前にも正しい人、神様を信じていない人は悪い人、というような錯覚をしてしまいがちです。しかし、全ての人が罪人であり、神様を信じ、祈り求めている、この私こそ、同時に、神を恐れぬ者であり、罪人の頭のような者であるということを覚え、だからこそ、主の御救いが必要であるということを覚えたいと思います。

ローマ7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。