詩篇35:22 主よ、あなたは御覧になっています。沈黙なさらないでください。わたしの主よ、遠く離れないでください。
35:23 わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし 起き上がり、わたしのために裁きに臨み わたしに代わって争ってください。
35:24 主よ、わたしの神よ あなたの正しさによって裁いてください。敵が喜んで
35:25 「うまく行った」と心の中で言いませんように。「ひと呑みにした」と言いませんように。
35:26 苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が 共に恥と嘲りを受け わたしに対して尊大にふるまう者が 恥と辱めを衣としますように。
35:27 わたしが正しいとされることを望む人々が 喜び歌い、喜び祝い 絶えることなく唱えますように 「主をあがめよ 御自分の僕の平和を望む方を」と。
35:28 わたしの舌があなたの正しさを歌い 絶えることなくあなたを賛美しますように。
人が不当な苦しみの中にある時、正しい裁きを持って救いをお与えくださる神様に助けを求めることは、ごく当然のことでしょう。
そして、正しい裁きが行われる時、人ははじめて、その助け主を自分の神として受け入れるようになるのでしょう。
しかし、聖書における信仰者たちの祈りには、未だ解決に到っていない状況の中にありながらも、あえて、約束されたことを必ず成就してくれる神に期待し、いえ、むしろ、そうでなければ私の生きている意味がないというくらい、必ず、正義の主が正しい裁きを成し遂げて下さるに違いないという確信を持って祈っている姿勢を見る事ができるのです。
ヘブル11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
言い換えるならば、信仰とは、期待すること。既に目に見える祝福が祝福ではないように、本当の祝福は、目に見えない所にあり、やがて来るべき栄光の御国の支配の中にあり、しかも、それは、私たちの信じる心の只中にあるということを覚えつつ、期待して、信じ続けていきたいものです。