日時:2005年12月11日
聖書箇所:マタイ1章18~25節
本日の成長のテーマは「神の全能の力を信じる」パート2、先週のマリアへの天使の御告げに続き、ヨセフに対しての天使の御告げについてです。
天使は、イエス様の父母ヨセフとマリアと、それぞれに、イエス様誕生の知らせを予告しました。
マリアに対しては、生まれてくる子供は、優れた者、いと高い方の子と呼ばれ、ダビデの王位を受け継ぎ、聖なる者、神の子と呼ばれるであろうというふうに、どちらかと言うと、イエス様の、真の王、真の神としての側面について語られていると言えるでしょう。
一方、ヨセフに対して告げられた事柄は、生まれてくる子は聖霊によるのであるということ、そして、その名をイエスと名づけるよう命じられ、ご自分の民を罪から救う救い主としてお生まれになられるであろうというものであり、どちらかと言うと、「人間イエス」として、民を罪から救うために、十字架にかけられて死なれたイエス様のお姿を預言するものであるということが伺えると思うのです。
このことは、福音書の冒頭にイスラエルの系図を記したタイの福音書において「人間としてのイエス」の側面が語られ、逆に、人類の系図を記したルカの福音書において「ダビデの子孫としてのイエス」として紹介されていることを思う時、不思議なバランスでイエス様がどのようなお方なのかということが語られていると言えるのではないでしょうか。
あるいは、一般的に、この世の地位や役職などに心を奪われがちな男性には、イエス様が一人の人間として、どのような人として生まれてくるのかということが告げられ、一方で、自分の子供がどんな性格であるか、どういう風に育って行くだろうかと、その子自身に心を留めがちな女性には、イエス様がどういう地位につき、どのような役割を果たしていくのかというようなことが告げられ、人の思うところとは異なるところに目を向けるように、神の御業に目を留めるようにという要素が込められているのかもしれません。
いずれにせよ、天使がヨセフに告げた事柄には、生まれてくる子供が、誰か他の父親との関係の中で生まれてくるのではなく、聖霊によって生まれてくる子であること、名前を「イエス」と名づけるべきだということなど、結婚前に身重になったマリアを、どのように中傷・批判から守るべきかと悩んでいたヨセフにとって、全く眼中にない事柄であったようです。
もし、私がヨセフの立場だったら、「生まれてくる子供の名前なんて、二の次だ。それより、誰の子供だ。」とか「この状況をどうしたら良いのだろう。」と、きっと、生まれてくる子供には、全く関心を向けることができなかっただろうと思います。
しかし、天使は、ヨセフに「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げられ、「主は救い」という意味の名前を子供に名づけるようヨセフに命じ、その通り、生まれてきた子供に「イエス」と名づけました。
「イエス」という名前は、当時、ごく一般的な名前の一つであったそうです。しかし、イスラエルの人たちにとっては、とても素晴らしい祝福の約束を期待する名前であり、この名前をつけるということは、神様の救いを心から信頼して待ち望み、神様を礼拝することのできる平和な時代にあってこそ、名づけるにふさわしい名前であったと言えるでしょう。
つまり、天使がヨセフに対して願ったことは、主の救いの約束を信頼して、この驚くべき出来事をも、ごく日常的な出来事であるかのように、動じることなく感謝して受け入れるべきであるということであり、その証が「イエス」という平凡な名前をつけることにあったと言えるのかもしれません。
主なる神様が働かれるとき、それがいかに驚くべき不思議な事柄であったとしても、神を信じる者にとっては、それらは、ごく当然のことであり、動じることなく受け入れていく事柄なのだろう、そのように、イエス様のお誕生の出来事も受け入れ、クリスマスをお祝いしたいものです。
マタイ1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」