全能の神を信じる | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

日時:2005年12月4日
聖書箇所:ルカ1章26~55節

本日の成長のテキストは、天使ガブリエルによる、マリヤへの受胎告知について取り上げられています。テーマは「神の全能の力を信じる」です。
いつの時代にも、処女であったマリヤが聖霊によって男の子を産んだという事実について、疑いの目で見る者は多かったようです。しかし、成長の解説にも記されている通り、この世界の全てをお創りになられた神様がなさることならば、私たち人間の常識をはるかに超えた働きをなさっても、何の不思議もないはずであり、聖書に記されているその他の記述については、ある程度受け入れて、聖書の部分的な箇所については受け入れられないというような捉え方はできないはず、と私は思うのです。
聖書の神を信じるならば、そこに記されている事柄は、全て信仰を持って受け入れるべき、と私は思うのです。
さて、マリヤに告げられた天使ガブリエルの言葉には、単に、一人の男の子が産まれるという事実だけではなく、その子が優れた者となり、ダビデの王位を受け継ぎ、いと高き方の子と呼ばれ、聖なる者、神の子と呼ばれるであろうということが告げられます。
まだ結婚もしていない処女に子供が産まれるというだけでも驚くべきことですが、このような表現で産まれてくる子供が只者ではなく、イスラエルの民を解放へ導く偉大なメシアとして成長していくであろうことは、さらに驚くべき事であったと言えるでしょう。
なぜなら、ここに語られている事柄は、明らかに、旧約聖書に預言されているメシアの到来を告げるものであり、それが、生ける真の神、その人に他ならない事実を告げるものだからです。
つまり、旧約の時代、アブラハムを召し、イサク、ヤコブ、そして、ヨセフと導き、モーセの時代には、エジプトの奴隷の民から解放し、士師の時代、ダビデ王の時代と、常にイスラエルの民を導き、預言者たちを通して語られてきた、真の救い主の到来、それが、これから産まれようとしている子供によって実現するということを意味しているからなのです。
マリヤは、はっきりとそのことを認識し、もちろん、その子供を産むために召されたことを光栄と思いつつも、イスラエルの真の解放者、メシアなるキリストの到来を心から喜び、賛美しているのです。

ルカ1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

50節以下の言葉には、マリヤの救い主に対する期待が込められた賛美が記されています。
もはや、そこには、処女降誕がどうであるというようなことは一切触れられていません。ただ純粋に、救い主の到来を喜ぶ姿があるだけです。

神の全能の力を信じるということは、そのように、神のなさることに全幅の信頼を寄せ、感謝の心で、御心を受け入れることなのでしょう。そして、そこには必ず平安があります。