詩篇28:1 主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら わたしは墓に下る者とされてしまいます。
28:2 嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ あなたに救いを求めて叫びます。
28:3 神に逆らう者、悪を行う者と共に わたしを引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが 心には悪意を抱いています。
28:4 その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて 彼らに報い、罰してください。
28:5 主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。彼らを滅ぼし、再び興さないでください。
28:6 主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
28:7 主はわたしの力、わたしの盾 わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。
28:8 主は油注がれた者の力、その砦、救い。
明日は、教会学校のクリスマス会が行われます。
私はそこで、メッセージの奉仕をすることになっていますが、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」という天使が告げた救い主誕生の知らせを、どのように子供たちに伝えようか考えています。
そもそも「救い」とはどういうことなのか。
平和な国で、恵まれた環境の中に過ごしている子供たちに、救いとな何かをお話しするとき、単に、困難の中から助け出されるということだけ話しても、ピンとこないのでは?と思うのです。
確かに、この詩篇28篇の作者の嘆きの祈りの中にも、困難の中にある状態から、助け出して欲しい旨の事柄が綴られていますが、しかし、彼は、主に祈り終えたとき、「主は聞き届けてくださった。主こそ我が力、我が盾、私は主に寄り頼む。」と感謝な声をあげ、主が必ず助けて下さるであろう確信に到ることで、「喜び踊り」「救われた」と表現することができる状態にあることを表明しているのです。
ここから思う事は、主なる神様が、確かに祈りを聞き届けてくださるお方であり、私はそれにより頼み、信頼してお委ねしていくとき、そこに救いが既に約束されているものであるということ、いえ、そのような、生ける真の神、確かに祈りを聞き届けて下さる神と交わりをもつことのできる状態こそが、救いなのだと、そのように思うのです。
主イエス様は、今も生きています。そして、今も、私たち一人一人の祈りに耳を傾け、全能の父なる神の右にて、とりなし続けていてくださいます。
そのことを感謝し、私もダビデのように祈り続けていく者でありたいものです。