詩篇11篇 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

詩篇11:1 主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか 「鳥のように山へ逃れよ。
11:2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ 闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。
11:3 世の秩序が覆っているのに 主に従う人に何ができようか」と。
11:4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し そのまぶたは人の子らを調べる。

詩篇11篇では、今まで民が避け所としていた社会が荒廃し、もはや、それらによりすがって生きていても意味はないから、山に逃れてはどうかと勧める友人に対し、あくまで、自分の主に信頼して生きる道を選ぼうとしている作者の様子が伺えます。
3節の箇所には、本来「拠り所とするものが壊されたら・・・」という意味の言葉が用いられていて、「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」と翻訳されている新改訳聖書が最も忠実な翻訳をしていると言えるでしょう。
口語訳聖書では、「墓が取りこわされるならば」と訳されており、やや的外れな印象を与えてしまいますし、新共同訳聖書の「世の秩序が覆っているのに」という訳では、完全に意訳と言ってもいいほどです。
聖書本文に明記されていない単語を用いることには、やや疑問が残りますが、世俗の支配の進んだ社会において、私たちの拠り所とする宗教的な土台は、もはや無力なものであるかのように取り扱われ、文字通り、山へ逃れなければならないくらいほどに、社会の秩序から追い払われようとしている現実を思う時、新共同訳聖書が「世の秩序が覆っている」と、あえて意訳を採用していることは、決して無意味なことではないように思います。
大切なことは、ここで何が語られているのかということに注目し、その御言葉を聞いて、私たちがどう思うかということではないでしょうか。
世俗化の進んだ社会においては、宗教は、もはや意味を持たないのか。それとも、ひっそりと山へ逃れ、こじんまりと、信じる者たちだけの集いの中に安住する道を選ぶのか。
この詩篇の作者は、私たちにこう問いかけているのではないでしょうか。

「主を、わたしは避けどころとしている。あなたはどうなのか?」と。