ローマ3章19~28節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ローマ3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

本日は、宗教改革記念日です。
1517年のこの日、マルティン・ルターがビッテンベルグの城教会の扉に95か条の提題を表したと言われています。
その95か条の提題によると「我らの主にして師なるキリストが『悔い改めよ』と言われた時、キリストを信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲せられた」と述べられています。
この事は、マタイ3章2節においてバプテスマのヨハネが語った『悔い改めよ』という言葉が、単なる罪の贖いを得るための「行為」を求めるだけのものではなく、行為以上のこと、すなわち、思いと、心と、意思との根本的な確信を意味するものであるということを告げているのです。
つまり、形式的なざんげや、悔い改めているということを表すための善行などを求めているのではなく、もっと本質的な悔い改め、すなわち、己の業によって救いを得ようとする考えから、神の業に信頼して救いに与ろうとする真の信仰者の生き方が求められていると言えるでしょう。
ルターにとっては、罪を償うために捧げられる償いの行為や捧げ物、それらの事柄は、すべて、イエス・キリストの十字架の犠牲を全く無駄にするものであるとして、これらを排斥しました。
そうではなく、イエス・キリストの十字架の贖いの御業こそが、真に私たちを救いに導くことのできる唯一の方法であり、自分の力で何とかしようとするのを止め、神がこのように一人子をお与えになられるほどに私たちを愛して下さったという約束に信頼することようになることこそ、私たちのなすべき本当の『悔い改め』なのです。
ですから、どうかあなたも、今ここで、そっと手を休め、神の救いの御業の約束に信頼して祈るひと時を持ってみてはいかがでしょうか?

私たちを愛し、一人子イエス・キリストを十字架にお捧げになられた父なる神よ、あなたの尊い救いの御業を感謝し、己の業に頼ることをやめ、あなたの尊いお約束に信頼します。どうか、一人でも多くの方が、この素晴らしい救いの恵みをお受けになられますように、今日も1日お導き下さい。
主イエス・キリストの御名に頼り、お祈りいたします。アーメン。