イザヤ59章 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ59:12 御前に、わたしたちの背きの罪は重く わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり わたしたちは自分の咎を知っている。
59:13 主に対して偽り背き わたしたちの神から離れ去り 虐げと裏切りを謀り 偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。
59:14 こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき 正しいことは通ることもできない。
59:15 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。
59:16 主は人ひとりいないのを見 執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。
59:17 主は恵みの御業を鎧としてまとい 救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい 熱情を上着として身を包まれた。
59:18 主は人の業に従って報い 刃向かう者の仇に憤りを表し 敵に報い、島々に報いを返される。

イザヤ59章には、人間の不義に満ちた邪悪な世界に対する非難の言葉が語られ、それに対し、心を痛められた主がご自分の御腕によって民に救いをもたらそうとされたことが語られています。
しかし、その救いの御業には、当然、不義に満ちた邪悪な人間の犯した罪に対する裁きがなされなければならず、罪に対する裁きなしに、真の救い、真の贖いは成し遂げられないはずなのです。
そこに、イエス・キリストの十字架の死の意味があります。
イエス様が、私たち不義なる者の罪の裁きを一身に背負い、十字架で、その裁きをお引き受けになられたという事実があるからこそ、神様の裁きは完全であり、私たちの救いも完全なものとなりうるのです。

イザヤ59:20 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると 主は言われる。
59:21 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると 主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊 あなたの口においたわたしの言葉は あなたの口からも、あなたの子孫の口からも あなたの子孫の子孫の口からも 今も、そしてとこしえに 離れることはない、と主は言われる。

私たち不義なる者の世界に、公義をもって正しい裁きをもたらし、ご自分の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、真の救いをもたらされた主なる神様。
このお方が、今も、そして、永遠に私たちと共にいて下さるという約束を信頼しつつ、私の口からも信仰の告白をさせて頂ける幸いを感謝いたします。