イザヤ58:4 見よ お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては お前たちの声が天で聞かれることはない。
58:5 そのようなものがわたしの選ぶ断食 苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと それを、お前は断食と呼び 主に喜ばれる日と呼ぶのか。
58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し 主の栄光があなたのしんがりを守る。
近年、テレビのニュースなどを通じて、イスラム圏の文化や宗教的行事が報道されることが多くなりました。その中で、よく耳にするようになってきたのが、ラマダン(断食月)のことです。
ちょうど、今、ラマダン入りしているそうですが、パキスタンの地震のニュースなどでも紹介されていて、熱心な信徒たちは、水も飲まずに、救援活動に携わっているとか。でも、せめて、命を助けるために、水くらいは口にしてほしいと思います。
ちなみに、ラマダンにおける断食月は、日中は飲食が禁止されているため、夜間、家族そろって食事を楽しむようで、いつより豪華な食事を取ることもあるそうです。
さて、イザヤ58章の箇所には、断食に関する記述がなされており、本来の断食の意味を離れ、誤った理解をしている者への戒めの言葉が記されています。
断食だから、あらゆる飲食を絶ち、どれだけ神の掟を忠実に守っているかを誇り、互いに裁きあう・・・そのような断食は、戒めのための戒めに過ぎず、全く無意味なものとなってしまいます。
しかし、本来の断食の趣旨とは、ここにも記されている通り、貧しい人たちに食物を分け合うことができるように、豊かに所有している者が、幾分か自分の食を減らして分け合うことにあり、要するに、福祉の思想が背景にあることを忘れてはなりません。それをしないで、ただ、自分がどれだけ頑張っているかとか、あるいは、かえって、いつもより豪華な食事をとることの出来る期間と考えるなら、せっかくの断食の背後にある弱者救済の制度が台無しになってしまうと言えるでしょう。
神様は、私たち人間が弱く貧しい者であることを、よくご存知のお方です。そして、そのような弱く貧しい我々を神様が憐れんで下さったのだから、私たちも互いに憐れみの心を持ち、助け合って行くべきではないか。
それが、神様の御心なのではないでしょうか。
ピリピ2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
国が違うとか、民族、宗教、文化が違うからと言って、他人行儀で知らん顔をするのではなく、人として、神様に憐れんでもらった人として、同じ人助けが出来ればと思います。
パキスタン大地震で被害にあわれた方々に、真の神からの慰めと救援の手が差し伸べられますようにお祈りします。