イザヤ54章 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ54:4 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。
54:5 あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 全地の神と呼ばれる方。
54:6 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように 主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかと あなたの神は言われる。
54:7 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。

町を歩いていると、時々、とても近代的な建物や美しい構造物を見かけたりすることがあります。しかし、それらのほとんどは、自治体が税金を投入して作ったものであり、たいてい、それらが自治体の財政を苦しめる結果になっていたりします。
確かに、美しくて便利なものは、使っていても、とても心地良く感じられます。しかし、果たして、それは本当に必要なものなのでしょうか。莫大な借金をしてまで作り上げなければならないものなのでしょうか。
ツケは、子供たちの背中に重くのしかかっていくと言うのに・・・。

確かに、理想的なものを追い求めて行く事は、それはそれで素晴らしいことであるとは思います。しかし、そのような理想的な暮らしを追い求めて行く中で、理想とはかけ離れたものたちが、簡単に見放され、見捨てられたままになっている現実を目の当たりにする時、果たして、本当にそれで良いのだろうかと思ってしまいます。

そして、このような問題は、社会の中だけでなく、一般の家庭の中にも見られるものではないでしょうか。
誰もが平和で幸せな家庭を保ちたいと願っているはずです。しかし、自分が思い描いていた理想とは異なる家庭の姿にギャップを感じ、次第に現実の生活を受け入れることができなくなり、やがてそれらの現実を破棄してしまいたくなる。多くの離婚の原因は、そういうところにあるのかもしれません。

一方で、そのような人間のエゴによって見捨てられた者たちを、主なる神様は、ありのままで受け入れて下さり、見捨てた者たちに変わって、これを愛し、慰めて下さるのです。

このことは、私が本当の神様と出会った時の事と似ているかもしれません。
かつての私は、自分にとって都合の良い神々を求め、思い通りにならないと、それらの神々を呪い、簡単に見捨てて、別の神様に頼ろうとしたりしていました。
そのような行為が、いかに身勝手であり、罪深い歩みであったかということを今にして思い知らされています。そして、自分が思い描いていた理想的な生き方からはずれていった時、初めて、本当の神様に出会い、そのお方が、どえれほど私のことを愛していてくださったかを知り、慰めを頂くことができたのです。

イザヤ54:10 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。

時には、山が動くほどの、思いもよらなかったことが起こることがあるかもしれません。あるいは、見る影もなく、ボロボロに朽ち果てたような存在になってしまうかもしれません。
しかし、それでも神様の愛は永遠に変わらないのです。たとえこの私が、他人の目から見て、どんなに理想とはかけ離れた、どうしようもない存在であったとしても、神様は私を永遠に変わらない愛で愛していて下さるのです。

永遠に変わらない愛を受けていること。
これに勝る幸いはありません。
願わくは、自分の理想ばかりを神様に押し付けるのではなく、神様が遣わされたところで、与えられた現実と向き合いながら、誠実に生きていく道を歩み続けていきたいものです。イエス様が、罪深い私をありのままで受け入れ、ご自身の尊い血によって赦して下さったのですから・・・。