イザヤ53章 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

昨日、一昨日と、岡山県蒜山高原にある蒜山バイブルキャンプにて行われた、黙想リトリートに出かけてきました。
ここには、牛舎を改造して作られた、日本で唯一のキリスト教黙想リトリート専用施設があり、日常の喧騒を離れ、瞑想の中、主の御前に静まり、聖書の御言葉に集中して聞くことができます。
ちょうど、今回の黙想リトリートのテキストとして選ばれたのが、このイザヤ53章の御言葉。静かな環境の中、誰にも邪魔されずに、イザヤ53章の御言葉を味わうことができたことは、本当に幸いなことでした。

ここに記されている御言葉からは、私たちの罪を担って十字架に死にゆかれたイエス様の姿を思い知ることができます。
しかし、そんなイエス様のお姿を見て「ああ、あの人は神の手にかかり、神に打たれ、苦しめられているのだ」というように、第三者的に眺めている自分に気がつくのです。この私のためにイエス様が死なれようとしているというのに、「ああ、かわいそうに・・・」と、まるで、他人事のように見る自分。
結局、イエス様の気持ちなど、何もわかっていないのだと思うのです。

しかし、イエス様は、そんな「何もわかっていない私」だからこそ、その愚かな私の身代わりとなって、裁きをお引き受けくださり、この私を赦し、救って下さるのだということを思う時、本当にありがたく、どうしようもないくらいに感謝な心が与えられるのです。

イザヤ53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

イエス様は、ご自分が望まれた通りのことを成し遂げ、何もわからない私たちをお救い下さり、その実りを見て、お喜び下さるお方です。
イエス様が私を救ってくださって、イエス様がそれを喜んでいて下さるのなら、私は、もうそれで十分という気がします。