イザヤ51章 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ51:1 わたしに聞け、正しさを求める人 主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩 掘り出された岩穴に目を注げ。
51:2 あなたたちの父アブラハム あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び 彼を祝福して子孫を増やした。
51:3 主はシオンを慰め そのすべての廃虚を慰め 荒れ野をエデンの園とし 荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。

先日、韓国の科学者が、クローン人間を生み出すことを可能とする技術を開発したというニュースが紹介されていました。
正確には、卵子の核を取り出して、そこに、体細胞の核を入れて細胞を増殖させ、どんな組織にも成長しうるES細胞を作り出す技術を開発したとのことです。
もし、その細胞を子宮に戻し、成長させれば、クローン人間が生み出されることは確実です。
もちろん、そういう事には、倫理的な問題があるため、実際に行われる事はないと思いますが、ありえない話ではありません。
仮に、難病患者の治療のためという大義名分で組織が生成されるようなことになったとして、その組織は、もう一人の同じ人間になりうる可能性を持った命であることから、自分を複製して、その命を犠牲にして命を永らえるという、なんとも恐ろしい現実がそこにあることを忘れてはならないと思うのです。


切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注ぐとは、かつて自分がどういう状態であったかを思い起こし、主の救いの御業の素晴らしさを味わい知ることに他なりません。
間違っても、自分の細胞から、もう一人の自分を作り出し、そこから、必要な臓器を切り出して置き換えるようなことではないはずです。
むしろ、そのようなことをしても、命には必ず限りがあります。
むしろ、限りある命を精一杯、感謝して生きることの方が、どれだけ素晴らしいことかと思います。

私もかつては、今を生きていることの意味を深く考えもしないで、ただ、なんとなく流されるままに生きていた(あるいは死んでいた?)ように思います。
しかし、そんな死んでいたような者であった私を、神の御子、主イエス様がご自分の尊い命を犠牲にして下さったことにより、真の命に与る者として頂いたのです。
自分の命を複製して、自分の命と置き換えたとしても、もう一人の自分が苦しんでいるはず・・・。そこに、真の救いは無いのではないでしょうか。

これから先、科学技術の進歩は、ますます禁断の領域へと進んでいくことでしょう。しかし、救いは唯一の主イエス・キリストのうちにあることを覚えたいものです。