創世記33:1 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、
33:2 側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。
33:3 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。
33:4 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。
ヤコブを出迎えたエサウは、かつてのように、長男の権利を横取りされて怒りに満たされていた時のようではなく、長い間離れ離れになっていた肉親との再会を心から喜ぶ人のようになっていました。
何が彼をそうさせたのか。
時間の経過がそれを可能にしたとしか考えられません。
私は、時間も愛だということを思います。
というのも、身の回りの誰かが傷ついたり、打ちひしがれているとき、何が何でも今すぐに慰めてあげるばかりが最善ではない場合もあり、そっとしておいてあげるのも一つの愛の形ではないかと思う時があるからです。
見方によっては、何もしていないと受け取られるかもしれませんが、そっとしておいてあげる間、「祈って待つ」のであり、何もしないわけではないのです。
きっと、エサウも、ヤコブも、祈って時が来るのを待っていたのでしょう。
きっと、神様も、そんな思いで私たちが悔い改めて神を信じるようになるのを祈って待っていらっしゃるのでしょうね。
私も、何もしないのではなく、祈って待ち望む姿勢を大事にしていきたいです。