創世記34:20 ハモルと息子シケムは、町の門のところへ行き町の人々に提案した。
34:21 「あの人たちは、我々と仲良くやっていける人たちだ。彼らをここに住まわせ、この土地を自由に使ってもらうことにしようではないか。土地は御覧のとおり十分広いから、彼らが来ても大丈夫だ。そして、彼らの娘たちを我々の嫁として迎え、我々の娘たちを彼らに与えようではないか。
34:22 ただ、次の条件がかなえられれば、あの人たちは我々と一緒に住み、一つの民となることに同意するというのだ。それは、彼らが割礼を受けているように、我々も男性は皆、割礼を受けることだ。
34:23 そうすれば、彼らの家畜の群れも財産も動物もみな、我々のものになるではないか。それには、ただ彼らの条件に同意さえすれば、彼らは我々と一緒に住むことができるのだ。」
ヤコブの娘ディナがヒビ人ハモルの子シケムに辱められたとき、ヤコブの息子たちは、彼らに割礼を受けるよう提案しました。
シケムたちも、この提案を受け入れ、割礼を受け、イスラエルの民と同盟を結ぼうとしているようにも見えますが、彼らの考えは、あまりにも打算的なものです。
一方、ヤコブの子たちも、はじめから彼らを打つために、このような提案をしていることが伺え、双方が打算的な計略をもって接しようとしていたことが伺えるのです。
日本人は、本音と建前を上手に使い分け、人との関係を上手く保とうとすることに長けていると言えるかもしれません。しかし、そのような態度では、やがて関係をこじらせ、最悪の場合、深刻な人間不信を招いてしまうことにもなりかねません。
誰もが自分の利益ばかりを考えているだけでは、互いに信頼を持って接することが難しくなってしまうはずです。
しかし、このようなことは、誰のうちにもあるものです。
実際、私の心の中にも、このようなよこしまな部分があることを知っています。
大切な事は、それを素直に認め、主にあって、イエス・キリストの命の犠牲による赦しが必要であるということを覚えることでしょう。
赦しを宣言していただかなければ、あまりにも寂しく、空しい人生のように思えてしまうからです。
願わくは、イエス・キリストにある赦しを頂いて、打算的な生き方から解放され、主の御心に従って歩める者になりたいものです。