2コリント11章16~33節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2コリント11章16節以下の箇所からは、コリントの教会の者たちが、様々なこと(おそらく家系や血筋、あるいは個々の能力等)で互いに誇りあっていたために、パウロは、そのような高ぶりを戒めようとしていたことが伺えます。
おそらくパウロは、あえて誇っても仕方が無いことなのでしょうが、パウロ自身が受けた迫害の数々を取り上げることによって、どうせ誇るのならば、このような「キリストにあって受けた迫害の事実」を誇ることで、キリストの御名が崇められるようになって欲しいと願って、このようなことを書き記したのではないでしょうか。

2コリント11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。

パウロが受けた迫害の数々は、確かに凄まじいものです。
しかし、それらの迫害にも耐え、キリストの福音を宣べ伝え続けて行くことができたのは、体を殺すことができても、魂を殺すことなど決してできないものを恐れず、キリストにあって与えられた永遠の命の約束をしっかりと携えていたからではないでしょうか。
それは、十字架の上で「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのか知らないでいるのです。」と仰せられたイエス様の深い御愛を知っていたからこそ、無知な者たちの加える迫害にも、忍耐を持って、耐え忍んでいくことができたのではないかと思うのです。
そして、同じ信仰を頂いている、キリストにある教会に連なる者たちに対し、このような信仰に生きることの大切さを伝えようとしていたのでしょう。

1ペテロ2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

イエス様は、正しい人のためではなく、罪人のために、罪人を救うために命を投げ出して救おうとして下さいました。そして、このようなイエス様のお姿に倣い、御跡に従って歩むことは、神の御心に適うことなのです。
もちろん、私たちは、イエス様と同じというわけにはいきませんが、せめて、短絡的な判断で他人を裁くことなく、キリストの愛にあって人を見ることができるよう努め、時には理不尽な迫害を受けなければならない時があっても、キリストの愛の故に、苦しみにも耐える力を養って頂きたいものです。