2コリント11:4 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。
11:5 あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。
11:6 たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。
11:7 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。
11:8 わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。
11:9 あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。
何年か前に、超教派の伝道集会に参加したときのことです。
集会の中で、何人もの先生方が、入れ替わり立ち代り、メッセージを取り次いで下さいました。
しかし、よく聞いていると、どの先生のお話しも、「イエス様はあなたを救うために十字架で死んで下さった。そして、新しい方が救われるために、イエス様の福音を伝えなければならない。そのためには、献金が必要です」という内容のものばかり。献金のアピールが悪いわけではないのですが、何人もの先生方が同じ事を言われると、さすがに、あまり良い気持ちはしませんでした。
挙句の果てに、しっかり、献金のアピールもなされ、「チャリンと音のするものでなく、シュッというものを」と。集会の最中に回ってきた献金袋は、透明なビニール袋でした。
一体、この集会は、何のためにやっているのだろうかと思い、がっかりして帰ったことを覚えています。
もし、伝道者の語るメッセージが、結局は、献金や奉仕のアピールだけで終わってしまうとしたら、それこそ、一体、何のための宣教か、どういう福音なのか、疑われても仕方ありません。
教会の業のために奉仕をしたり、献金を捧げたりすることは、それ自体は悪いことではないのですが、それを、いかにも幸いなことであり、喜びであるかのように語り、まるで「福音のメッセージ」であるかのように語られるとしたら、それは、まさに、十字架にかけられたイエス様の尊い犠牲を無駄にすることになりかねません。
聖書における「福音」とは、イエス様の尊い犠牲による救いの約束しかありえないからです。
もちろん、奉仕や献金をお勧めすることは大切なことです。しかし、それが福音宣教の中心ではないはずです。
パウロはそのことをよく承知していたし、その中心がぼやけてしまわないために、細心の注意を払っていたのでしょう。捧げることに対して、まだ、完全な知識に到達していない者たちには、まず、献金とはどういうものであるかということを説き、それに心から応じる姿勢が養われない限り、強要するようなことはしたくない、と。
こうして考えると、パウロが伝えたかった、唯一の福音のメッセージ、「主イエス・キリストの尊い犠牲によって救われる」という、神の恵みによる、本当の喜びのメッセージを見失うことなく、喜んで神に仕え、喜んで献金も捧げたいと思わせるような、そんな、福音を語り続けて行きたいものですね。