2コリント10章1~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2コリント10:10 わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
10:11 そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
10:12 わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。

牧師という仕事をしていると、いろんな人々に、それぞれ違った見方で見られることになります。
ある人は、霊の父として、またある人は、とてつもない聖人であるかのように。
一方で、「牧師のくせに愛のない奴だ」とか「世俗化した高慢な奴め」という風に見る方も時々いらっしゃいます。
私は「私は私です。イエス様にあって罪赦された、罪人のかしらに過ぎない者です。」としか思いません。

1テモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
1:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。

確かに、クリスチャンの手本となるために召されていることは事実なのでしょうが、いわゆる「聖人」としての手本ではなく、一人の罪赦された者としての見本に過ぎないのであり、願わくは、そのように受け留めて頂きたいと思っています。

神様の前に、偉い人と、そうでない人がいるのでしょうか。
神の一人子、主イエス様の尊い贖いの犠牲によって赦された者たちであるという点で、みな、同じではないでしょうか。ならば、偉そうに振舞うこともナンセンスであり、同様に、「偉そうに・・・」と言って中傷するのも、またナンセンスと言えるでしょう。

今日も1日、イエス様の尊い犠牲によって赦されていることを、ただ感謝して生きていきたいものです。