2コリント7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、
7:9 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。
7:10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
この箇所から、パウロがこの手紙を書き送る前に、もう一通の手紙を書き送っていたということが伺えます。しかし、コリント第1の手紙には、ここに記されているような、コリントのクリスチャンたちが悲しむほどの厳しい内容のことは書かれていないため、第1の手紙とは別に、もう一通、コリントの教会へ書き送ったのだろうと言われています。
今では、その手紙は残っておらず、どんな内容のことが記されていたのかはわかりませんが、相当厳しいことを書いていたのかもしれません。パウロ自身、言い過ぎたかなと思うくらい、厳しい内容のことを書き、コリントの教会のクリスチャンたちが真摯に受け留めてくれるかどうか、正直不安に思っていたのでしょう。
しかし、コリントの教会から帰ってきたテトスからの報告は、パウロを安心させるものであったようです。つまり、パウロの熱意が伝わり、神の御心に添った悲しみ、つまりは、主の御前に正しい悔い改めをして、コリントの教会の人たちに、神の御旨に熱心な行動を起こさせたのでしょう。
最近、メールばかりで、なかなか手紙を書く機会が少なくなってきましたが、メールは手紙以上に、書く人の温度差が伝わりにくいものだなあと、つくづく思います。
言葉だけを記した手紙ですら、なかなか感情が伝わりにくいというのに、味気ないフォントが連なるメールだと、なおさら、冷たい印象を与えてしまうようです。
私のように汚い字を書く者にとっては、メールはありがたい手段だなあと思うのですが、受ける側にして見れば、かえって、汚い文字が並んでいる方が、暖かく感じられるのかもしれません。
聖書も、一見したところ、活字で記された書簡の集まりのような本なのですが、もともとは心のこもった、手で書かれた手紙だったのだということを、今一度、心にとどめながら、読んでみたいと思います。
よく、「聖書は神様から、あなたに向けて書かれた手紙である」という風に言われますが、まさに、その通り。パウロを通してコリントに宛てて書かれた手紙を通して、神様が私たちに語りかけていて下さる。そう理解しながら、今日の御言葉を味わわせていただきたいものです。