2コリント6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」
7:1 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
以前、神学生だった頃、旧約神学の先生に「旧約聖書で、豚を食べてはいけないと書いてあるのは、どう理解したら良いでしょうか?」と質問したことがあります。その時の先生の御答えは「タブーですね」というものでした。なんともユーモアのある先生です。私は、今も、その先生のことを「賢い先生だなあ」と尊敬しています。
それはさておき、現在の私の理解ですが、旧約聖書におけるタブーは、おそらく、異教的な事柄からの分離を指し示す型なのでは?と思います。
例えば、割礼が洗礼の型であり、出エジプトにおける、奴隷の民からの解放が、罪と死の奴隷からの救いの型であるように、旧約聖書における様々なタブーは、現代の社会における、異教的な要素を伴った文化や習慣から分離していくことを戒めた、ひな型なのだろうと思います。
この季節、あちこちで、短冊に願いを込めた、七夕の笹を見かけます。「星に願いを!」本気でそう信じているのでしょうか。ちなみに、星は、太陽と同じ、灼熱の物質の塊です。そんな物が、一体、何を、どのように、願いをかなえてくれるというのでしょうか。
そんな幼稚な考えの割りに、多くの日本人が聖書は信じようとしないのは、本当に不思議です。
ともかく、この世界の全てをお創りになり、今も私たち一人一人を祝福しようと願っておられる主なる神様は、ただ一人のお方。そのお方から目をそらせてしまうような物には、なるべく触れないようにしたいものです。信仰の弱いものだからこそ、あえて、そのような誘惑から遠ざかることも自衛手段の一つなのかなあと思います。
願わくは、命をかけて私を愛して下さった主イエス様から、一時も離れないで歩ませていただきたいものです。