箴言21:3 神に従い正義を行うことは いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。
サウルが初代のイスラエルの王様になったとき、預言者サムエルを通して語られた神様の御言葉に背き、アマレク人たちの家畜などを惜しんで、これを生かしておいたことがあります。
このことは、神様の御心を損ない、そして、次のような言葉がサウルを通して語られました。
1サムエル15:22 サムエルは言った。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 反逆は占いの罪に高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる。」
サウルは、神様に捧げるための最上のいけにえを取って置いたのだと言っていますが、これらの分捕りものは、明らかにサウルが惜しんで残したものであり、あわよくば、自分のために取って置こうとしたものであることは容易に想像できます。
私たちも、これは神様のために捧げるものだからと言って、聞こえの良い言い訳をしておきながら、裏では、自分自身の欲望を満たすために行動していることがあります。しかし、そのような行動を神様が喜ばれるはずはないのです。
仮に、私たちが神様にどんなに素晴らしいものお捧げしようとしたとしても、それらのものは、もともと神様から頂いたものであるはずなのですから、あたかも私たちの働きによって得られたものであるかのように勘違いし、神様に御捧げしようとするならば、ただの思いあがりであり、高慢の罪、偶像崇拝に等しいとまで言われるような行為に他ならないのでしょう。
イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」として、私たちの罪の償いのために、最上のいけにえとして、私たちに変わって、最高の捧げものをお捧げくださいました。
しかし、このことは、単なる「いけにえ」ではありません。なぜなら、このことは、私たちの側から出たものではなく、神様ご自身が私たちを憐れんでくださった故に捧げられた犠牲であり、神様の愛ゆえの「どんないけにえにも勝る、神の正義の御業」であるからなのです。
神様ご自身が、どんないけにえにも勝る、最高の恵みとして、御子イエス様の命を投げ出して、私たちの罪の赦しと救いの約束をもたらして下さったからこそ、イエス様の十字架の贖いは「恵みの賜物」に他ならないのです。
願わくは、私自身のちっぽけな「いけにえ」のような業ではなく、神様の大いなる愛の御業に、ただ感謝して歩む者とならせていただきたいですね。