箴言9章1~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

箴言で語られる「知恵」とは、主を恐れ、聖なる方を知ることであると言えるでしょう。そのような「主なる神を信頼する」ことに従っていく時、人ははじめて「生きる」ことができるのだと思います。
箴言9章では、その「知恵」が「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と呼びかけ、私たちを真の命へと招いている様子が描かれています。

箴言9:1 知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、
9:2 いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、
9:3 小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。
9:4 「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい。」と。また、思慮に欠けた者に言う。
9:5 「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、
9:6 わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい。」と。

まさに、マタイ福音書28章において、主イエス様が

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

と語られたことと深く結びついていると言えるでしょう。


しかし、これと同じような呼びかけをする者もいます。

箴言9:13 愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。
9:14 彼女は自分の家の戸口にすわり、町の高い所にある座にすわり、
9:15 まっすぐに歩いて行く往来の人を招いて言う。
9:16 「わきまえのない者はだれでもここに来なさい。」と。また思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。
9:17 「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。」と。
9:18 しかしその人は、そこに死者の霊がいることを、彼女の客がよみの深みにいることを、知らない。

愚かな女は「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と、全く同じ呼びかけを持って、知恵とは正反対の方向へ、すなわち、死と滅びへと私たちを引き摺り下ろそうと狙っているのです。
もともと思慮のない者ですから、どちらを選べば良いのか、正しく見極めることができないかもしれませんが、「あなたのために、私の命を捨てる」と仰せられるようなお方は、イエス様をおいて他にはいないのですから、唯一、このような仕方で私たちを愛して下さるイエス様から目を離さないで、従っていきたいものですね。

ヨハネ10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。