箴言8章1~36節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

箴言8章では、「知恵が呼ばわる」という風に語りかけられていて、擬人化された知恵が、私たち人間に分別や思慮を与えてくれるということが語られています。

箴言8:1 知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。
8:2 これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つ角に立ち、
8:3 門のかたわら、町の入口、正門の入口で大声で呼ばわって言う。
8:4 「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、人の子らに声をかける。
8:5 わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。

確かに知恵は私たち人間にとって、生きていくために有益な思慮分別を得させ、それらのことは神様の喜ばれることであると言えるでしょう。
その「知恵」が、まるで人格を持ったお方のように語られていることは、大変興味深いことと言えるでしょう。
そして、12節以下においては、その人格を持った知恵なるお方が、主なる神であられるということが明らかに記されていきます。

箴言8:12 知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。
8:13 主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。
8:14 摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。わたしは分別であって、わたしには力がある。

そして、22節以下になると、天地創造の際、神の創造の働きの中に、この「主なる神」がともにおられ、永遠に生きておられるお方であるということが語られているのです。

箴言8:22 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
8:23 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
8:24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
8:25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
8:26 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
8:27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
8:28 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
8:29 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、
8:30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
8:31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

この箇所は、創世記の最初の記述や、新約聖書のヨハネ福音書の冒頭の記事を思い出させます。

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ことばによって、天地万物を創造された、「知恵」であられる「主なる神」こそ、実に、この「ことばなる神」である、私たちの救い主イエス・キリストに他ならないのです。
そして、その「知恵」なるお方、主イエス様は、なんと、ご自分の命を投げ出して、私たちを滅びから救おうとして下さったお方であり、これほどまでに大きな愛を持って、私たちを慰めて下さるお方なのです。
だからこそ、この知恵は、人格を持っているのであり、私たちを愛し、救いたいと言う、深い憐れみに満ちた神の御心こそ、真の知恵と言えるのです。

箴言8:32 子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。
8:33 訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。
8:34 幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。

神は人格を持ったお方であり、私たちを愛し、命と平安を与えようと願っておられます。そのために、人間の考えにも及ばなかったような驚くべき御業(一人子であられるイエス様を十字架にかけて身代わりに死なれるという方法)によって、私たちを贖ってくださいました。これこそが、神の知恵、主イエス・キリストなるお方なのです。