1テサロニケ4章には、パウロがテサロニケの教会のクリスチャンたちに宛てて書き送った勧めの言葉が記されています。
内容は、主の御心である聖く生きること、兄弟愛をもって仕え合うこと、自分に与えられた仕事をし、落ち着いた生活を行うこと、そして、イエス・キリストにある復活の希望を持って生きていくことです。
これらの事柄は、主イエス様を信じて救われた者が、この地上において、どう生きていくべきであるかということを教えているものです。
これを読んで「難しいなあ」と思うか「素晴らしいなあ」と思うかで、随分、生き方も違ってくるように思います。
「難しいなあ」と思われた方は、どうしても、自分で自分を裁いてしまう部分があるかもしれません。できない自分、不完全な自分ばかりに目を留めてしまい、なかなか思うように進むことができないで苦しんでばかりいるのではないでしょうか。
一方「素晴らしいなあ」と思われる方は、それが自分にできるかどうかは別として、生きる目的、進むべき道を教えて頂いたこと自体に喜びを見出し、それを目指して前進していくことができるのではないかと思うのです。
ピリピ3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
パウロですら、不完全な自分を認めつつも、なお、前に向かって進もうとしているのであり、前に進むことのできる幸いというものを感じ取っていたのでしょう。
前に進むことができる幸い。「希望」とは、そういうものなのでしょう。