イザヤ29章1~24節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ29:13 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。

この御言葉は、マタイ福音書15章において、かたくなに人間の戒めに従おうとしているパリサイ人や律法学者たちをイエス様が批判した時、イザヤの言葉として引用されている言葉です。

マタイ15:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
15:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

マタイ福音書でのイエス様の主張は、当時の指導者らであったパリサイ人や律法学者たちが、自分たちの父母に差し上げられるべきものも、「これは主に捧げる供え物になった」と宣言してしまえば、もはや、それを持って、父母を敬う必要はないかのように考えていた彼らの偽善的な行為を批判するものであると言えます。
例えば、クリスチャンになったら、全てのものは神様から頂いたものだから、なるべく多くの物を神に捧げるべきだから、両親に何かすることなど、もっての他だなどと考えているとしたら、それこそ、神様の御心が何であるか、全く理解していないことになると言えるでしょう。
神の戒めは、「神を愛し、隣人を愛すること」なのですから、しかも、十戒の中で「父母を敬え」とはっきりと明示されている戒めであるのですから、自分の父母を敬う事は、大切な戒めであることは変わりないはずなのです。

こうして考えると、預言者イザヤが活躍した旧約聖書の時代も、イエス様が活躍された新約聖書の時代も、同じように考える人たちがいたということであり、当然、今の時代にも同じように考える人がいるということなのかもしれません。

かつて、私もそう考えていた一人であったかもしれません。
親を捨てでも、神のために生きて行こうと。しかし、それでは、全く意味がないのです。
少なくとも、この世に生を与えられて、何年もの間、一生懸命育ててくれたのは、まぎれもない、両親なのですから、何があっても、このことに関する感謝は忘れてはならないと思うのです。
もちろん、それ以上に、神様がこの私を命あるものとして下さったのも事実。
命の創造者なる神と、贖い主イエス様。そして、この世での育ての親である父母に感謝しながら、精一杯、この世での生を全うさせて頂きたいものです。

もうすぐ母の日ですね。
子供たちが母の日の似顔絵を書いていましたが、さて、私は何をしようかな?