イザヤ22:12 その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、
22:13 なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。
22:14 そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。」と、万軍の神、主は仰せられた。
人が罪を犯した時は、それを真摯に反省し、悔い改めて、主の赦しを請うということは、とても大切なことです。なぜなら、主なる神様のお赦しを頂いたならば、そこに神様との交わりが回復し、それが本当の意味での命に与ることだからなのです。
しかし、なんと多くの人が、自分の罪を悔い改めることをせず、かえって開き直っていることかと思わされます。
どうせ裁かれるのなら、好きなことをやっておいた方が良いではないか・・・。
しかし、そのように思われるのは、神様の裁きの本当の怖さを知らないからなのです。
神様の裁きとは、永遠に続くものです。救いが永遠の命と平安ならば、滅びも永遠。苦しみ続けなければならないのです。消滅するのではないのです。
実は、イエス様の十字架のお苦しみは、そのことを、少しでも私たちに知らしめようとするものであると言えるでしょう。イエス様の十字架のお苦しみは、一瞬で死に絶え、簡単に苦しみから解き放たれるようなものではなく、徐々に苦しみを味わい続け、釘付けにされた手足の傷の痛みにより、意識を失うこともできず、苦しみ続けなければならないものなのだそうです。
イエス様は、そんなお苦しみを、この私たちのためにお引き受けくださったのです。
私たちは、そのようなイエス様の苦しまれたお姿から、一時も目をそらしてはなりません。常にイエス様の十字架を見上げ、それによって、永遠の滅びから解放されるという驚くべき恵みを覚えていたいものです。
イエス様、こんな私のために十字架で苦しみ、私の身代わりに死んで下さったことを、ただ、感謝いたします。
どうか、このような愚かな者を、あなたの十字架の血潮によってお赦し下さい。
主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。