イザヤ20:1 アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年、・・
20:2 そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。
20:3 そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、
20:4 アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。
20:5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
旧約聖書において、大預言者と呼ばれているイザヤは、実に忠実に、自分に託された神の御言葉を告げ知らせる務めを果たしていった人物であるといえます。
しかし、その歩みは、なんと過酷で、壮絶なものであったことだろうと思います。
本日与えられている箇所を文字通り読むと、エジプトとクシュへの神の裁きを伝えるために、預言者イザヤは、なんと、3年もの間、腰の荒布を解き、はきものをぬぎ、まさに、真っ裸で過ごさなければならなかったのです。いくら、エジプトとクシュに対する裁きを知らしめるためであるとは言え、想像を絶するような過酷な働きであっただろうということを思わされます。
私たちも、伝道者の端くれとして、そんな歩みを経験しなければならないのだろうなあと思いながら、ふと、そういう思いは傲慢なのではないかと思わされました。
というのも、私たちの罪の裁きを知らしめているのは、何を隠そう、あの十字架のイエス・キリストのお姿ではなかったか、3年もの間、枕する所もなく、貧しいものや罪人たちと共に歩み、最後の最後には、犯罪人のごとく、十字架の死刑に処せられ、私たちの身代わりとなって辱められたのは、私たちの救い主、イエス様そのお方なのだと。