イザヤ19:19 その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、
19:20 それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。
19:21 そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。
19:22 主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。
19:23 その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。
19:24 その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。
19:25 万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」
この箇所には、エジプトの悔い改めと救いの約束が語られていて、聖書における記述の中では、非常にめずらしい内容の事柄であると言えるかもしれません。
というのも、「エジプト」と言えば、出エジプト記における、「心をかたくなにする民」との印象が強いのですが、ここでは、そのエジプトの民が悔い改め、万軍の主なる神に救いを求めて叫ぶとき、主なる神は、彼らを救うであろうということが語られているからです。
私たちは、ついつい、「この人は同じ信仰を持つ人、あの人は違う信仰を持つ人」というような基準だけで、「この人は自分の味方、あの人は自分の敵」というような構図を持ってしまいがちです。
しかし、神様の目にはどうなのでしょうか。
神様の目には、やはり、「あなたは私の目には高価で尊い」のです。
もちろん、それは、イエス・キリストの尊い贖いの代価があってこそ言えることなのですが、主イエス様の十字架の贖いは、全ての民に向けられた神の救いの約束であるということを覚えていたいものです。