イザヤ18:1 ああ。クシュの川々のかなたにある羽こおろぎの国。
18:2 この国は、パピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国に。
18:3 世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗の揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。
18:4 主が私にこう仰せられたからだ。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。照りつける暑さで暑いころ、刈り入れ時の暑いときの露の濃い雲のように。」
クシュとは、今のエチオピアの辺りのことを指しているそうです。
しかし、ここでのエチオピアという国は、そのような遠い国の民ですら、神の御業を見るようになるであろうという趣旨で用いられており、3節のような、世界の全ての住民の一つとして、クシュの民が取り上げられているようです。
4節以下に記されている事柄は、アッシリアの滅亡の預言であるそうで、主なる神様が、神を敬わないアッシリヤの民を打つ時、全世界の民が神の御業を見、やがて、シオンの山に贈り物を届けるようになるだろうという風に語られ、神様のなさる御業が、全世界に知らされるということが語られていると言えます。
宣教という言葉は、そういう事柄を示していると言えるでしょう。
宣教というと、何か、クリスチャンの人たちが、熱心にイエス様のことを伝える働きのように考えてしまうのですが、本質的には、神様がなさった御業であり、その御業を見た人たちが、その神の御業を告げ知らされていくことであると言えるでしょう。
私たちの国は、エチオピアよりもさらに遠くの国、日本。
この国にも、神の御業が現されていきますように、神の御業である宣教の業が進められて行きますように。