マタイ23:23 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
イエス様は、上記のような表現で、うわべだけで内実が伴っていない律法学者やパリサイ人たちを厳しく戒めました。
しかし、逆に言えば、律法における重要な事柄は、正義であり、憐れみであり、誠実であるということでしょう。
いつの時代にも、法と呼ばれるものは、社会全体の秩序や、社会的弱者が配慮されるように定められてきました。しかし、いつのまにか、強者の都合ばかりが優先され、法を守れないものは裁かれるべきというような考え方が蔓延しつつあるように思うのです。
それは、聖書においても同様です。
神様が律法を定められた時、そこには、神様の深い愛と憐れみの故に、一人一人の魂が尊ばれるように、神を愛し、隣人を愛すべきであるという思想が反映されていたはずです。
しかし、律法学者やパリサイ人たちは、自分たちだけが律法を守ることが出来、守れない者たちを裁きの目で見ていたのでしょう。
一体、何のための律法であるのか、イエス様が諭そうとなさったのは、その点にあると言えるでしょう。
ところで、聖書には、イエス様が律法を廃棄するためではなく、成就するために来られたと記されている箇所があります。
マタイ5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
イエス様の十字架の死の出来事こそ、律法の全てを全うするための出来事であり、神様の全ての御心を成し遂げ、なおかつ、人を愛し、人を救うために自らの命を犠牲に投げ出すほどの愛を実行されたお姿であると言えるでしょう。
そう考えると、律法の根底にも、神の豊かな愛があることを思わされます。
愛ゆえの律法。
そう思うと、神様のおおせられた戒めを守ることも大切なことなのだと思います。