マタイ16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
イエス様が、ご自分の十字架の御受難について語り始めた時、ペテロは「そんなことがあってはなりません」と言って、否定しました。
これに対し、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と、手厳しい言葉を投げかけています。
このことは、ペテロの言った事、すなわち、イエス様が十字架にかけられて殺されてしまうであろうことが起こらないで欲しいと願うことが、サタンの願いでもあり、イエス様が十字架で死ななければ、私たち人類の罪の償いは、何によっても得ることができなくなり、全てが滅びへと引きずり込まれていく、まさに、サタンの思惑に他ならないのです。
もちろん、ペテロは、自分が言ったことが、そんなサタンの思惑に通じるものであるなどとは思ってもみなかったことでしょう。しかし、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とイエス様がおおせられたとおり、ペテロは、人間的なことだけを考えていたのです。
人間的なこと、それは、このままイエス様がイスラエルの王として君臨し、自分たちが、その側近として、権力を振舞うことができるのでは?そんな思いだったかもしれません。もしそんなことを考えていたのだとしたら、本当にひどいことでしょう。
でも、人間の考える事は、そのようなことばかりです。
マルコ9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
イエス様は、そんな弟子たちの人間的な思いをどう思われたでしょう。きっと、憐れに思っていたのではないでしょうか。
イエス様は、そのような思いに囚われていた弟子たちに、「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って来なさい」と仰せられました。
マタイ16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
この箇所からは、よく「自分の十字架って何ですか?」と尋ねられることがあります。私が背負わなければならない十字架、それは、試練でしょうか?それとも、運命でしょうか?
しかし、ここで、「十字架」という言葉が用いられている以上、聖書における「十字架」と結びつけて考える以外ありません。つまり、私の背負うべき十字架とは、あのイエス様の十字架でもあり、罪の私は、イエス様とともに、あの十字架につけられて死に、イエス様とともに、復活せられた(ローマ6章1~11節)のです。
つまり、私の背負うべき十字架を背負うこととは、実に、この私のためにイエス様が十字架にかけられて死なれたという事実を受け入れて生きることに他なりません。
そして、あのイエス様のむごい十字架の死刑が、この私のためであった、と受け止めて生きていくことは、誰よりも強くイエス様の願っていることであり、神の御思いでもあるのです。
イエス様がそれほどまでに、私たちのことを思っていて下さるのですから、ひと時も、イエス様の十字架の意味を忘れることなく、生きて行きたいものです。