マタイ16章1~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

イエス様は、弟子たちに対して、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えに注意するようにお命じになられました。
ファリサイ派の教えとは、簡単に言えば、古い戒めにこだわり、行いを良くすることによって救われようとする考え方で、イエス様の十字架の贖いによる尊い代価によって救われるという聖書の根本的な教えと対立するものです。
一方、サドカイ派の教えとは、現世的な生き方をよしとするものと言えばよいでしょうか。サドカイ派の人たちは、死者の復活を信じず、あくまでこの地上での生涯を、どのように上手く生き抜いていくか、世俗的な生き方を重視する考え方であったと言えるでしょう。

いずれの考え方も、聖書の説く、「イエス・キリストの十字架の血潮による救い」とは敵対するものであり、注意しなければ、すぐに、そのような考え方に陥りがちなものです。
大切なことは、私たちは、もうすでに、神の子とされた者であり、神の子とされた者らしく生きること、それは、赦された喜びに生きるということであって、良い業を行うべきであるということとは少し違っています。そして、神の国の民として、この世に遣わされている者であるということを覚えることも大切です。神様に召され、神の国の幸いをお伝えする大切な使命を担って、この地上での生涯が与えられている。
このような考え方は、きっと、私たちに生きる喜び、希望、そして、平安を満たしてくれると思うのですが、あなたはいかがでしょうか?

ガラテヤ5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。